「ばあちゃんの葬式終わったんで報告まで」と母親からメールが届くドライな我が家について

家族

ドライな家族、我が家あるある

コロナ禍でよく話題になるのは、帰省問題です。

このご時世だしなかなか実家に帰れない」という悩みを良く聞きますが、そのたびに私は居心地の悪さを感じます。我が家は盆暮れ正月に実家に集まる習慣がないし、帰りたいとも思わないからです。

「親不孝」を暗に責められているようで、居心地が悪くなるのでしょう。

両親は「少し用事が頼みやすい知人」くらいの感覚だし、お互い用がある時だけ連絡を取っている程度です。親しさでいえば、毎日会う同僚や、気の置けない友人の方が親しいと感じます。(あまりいませんが)

居心地の悪さを感じるのは、この「家族との距離」が、うちの場合一般的ではないからでしょう。

我が家のドライネタはいくつか挙げられます。

ばあちゃんの葬式終わったから報告まで

ある日、母からメールが届きました。

「ばあちゃんの葬式終わったから報告まで」

このシュールな文面に、思わずニヤッとしてしまいました。不謹慎でしょうか。人の死、しかも家族の死が業務連絡レベルに落とし込まれています。

いわゆる「暖かい家族」なら、「何で生きてるうちに教えてくれなかったのよ!」とばかりに激昂するかもしれません。母と私のお互いの感覚が業務連絡程度に同様のレベルだったから、このプロセスに特段問題は発生しませんでした。

了解です。何かできることがあったら連絡ください」とだけ返しました。

では、身近で起こった死に関する事例と比べてみましょう。

【比較1】遠方にいる親類を死に際に呼び寄せた件

私の同僚の話です。

「夫の父の危篤」のために、コロナ禍のリスクを負ってまで、同僚は仕事を休み5県またいだ夫の実家へ向かいました。義父からの「息子の嫁に、死に目に会いたい」という強い要望があったようです。

【比較2】離婚協議中で別居中の妻子を自身の祖母の葬式に招いた件

私の元夫の話です。

「自分(夫)の祖母の葬式」へ、離婚協議中で別居中の私と息子に参列するよう、強制しました。十数回着信がありましたからね。断るための会話をするのも面倒でしたし、行かざるを得ませんでした。

それぞれの想いがあるとは思うのですが、究極のところ「死を悼む気持ち」を強制するのは違うのではないかと思うのです。

「悲しい気持ち」や「体裁」をすべて否定するつもりはありませんが、上記2例は、「死」に対する「個人から他者への強制」がいささか度を越えているなと思った事例です。

超合理的思考をもつ作家の森博嗣さんは、「葬儀は残された者のためにあるもの」と仰っています。森さんは、親しい友人が亡くなった場合は葬儀に出席しないそうです。一方で、友人の妻などが無くなった場合は、友人のために出席するそうです。合理的な考え方だなと感心してしまいました。

一般的に「死」について比較的ナイーブに取り扱う傾向があるようですが、「死」は必然ですから、感情を排除して語ることに個人的には抵抗がありません。だって、みんな死にますもの。

骨壺は犬の方が豪華だった

ちなみに、遠方に住む兄が飼っていた犬が祖母と同時期に死に、骨壺を置く場所がないからと兄が実家に骨壺を持ち帰ったようです。

祖母の骨壺とならべると、犬の骨壺の方が豪華だったという笑い話まで我が家にはあります。

生物における「死」は同等ですからね。残された人間の対処の差が現れた結果です。不謹慎でしょうか。

兄弟間で連絡先を知らない

そもそも、兄弟間で十数年間連絡先を知りませんでした。実家にいる方の兄の携帯番号は今でも知りません。お互いに、お互いの生活に格段の興味がないです。

正直なところ、兄の思考や行動には少し興味があるのですが、兄が私に興味がないようなので、お近づきを遠慮しています。

そう言った間柄です。問題ありません。

「お母さん」という共通言語が通じない

祖母が亡くなったタイミングで、16年ぶりに兄と再会しました。ちなみに、私が子供を産んだことも、兄は母からメールで報告されたのみです。

16歳からの16年間は、お互いをお互いと認識するのも苦労します。まず、共通言語が成り立たないので、会話がスムースではありません。

「お母さんは元気か?」と聞かれても、私たちの母親のことか、私の当時の主人の母を指しているのかが認識できません。

兄は私たちの母親を「お母さん」と呼ぶのか不明だし、私たちの母親が元気かどうか、私は知らないからです。近しく会ってないので。

もはやその説明も面倒です。

そういえば、私は兄のことを何て呼ぶのがふさわしいか、未だにしっくりきたものがありません。「お兄さん」でしょうか。日本独特の「子供目線呼び」で、「叔父さん」でしょうか。

兄弟ってなんだろう、と考えさせられました。

変換してすぐ出たのが「京大」だったので、私にとってはその程度の存在なのでしょう。

兄は親の誕生日すら知らない

兄も私以上に家族に興味がないようです。兄にとっては飼い犬の方が人間の家族より大事なのは、誰が見ても明白です。

16年ぶりの再会時に、共通の話題になるのは家族くらいなので家族の話をとりあえずしましたが、お互い興味がないのが明らかなので、「興味がないネタ」に終始します

「オレ、あの人たちの誕生日も知らんし」

「家族っていっても他人でしょ」

「親が死んでも多分泣かんなー」

もともと兄は歯に衣着せぬ物言いをする人物でしたが、関西に長らく住んでいたため関西弁とマリアージュして、さらにキツめの表現となっていたのが印象的でした。個人的にはその真意に全面的に同意なのですが、世間様的にあまり大声で言うものではないですね、きっと。

あとは、双方の思い出の整合性をとりました。この作業は結構楽しかったですね。共通の過去が確かに存在し、その事実を別の視点から切り取るのです。コナン君は「真実はいつもひとつ!」と言いますが、私は真実は人の数ほどあると思います。

誤解がないようにお伝えすると、私たちの両親は世間一般から大きく外れたような両親ではありません。きちんと教育を受けさせてくれましたし、昭和的な育児手法ではあったものの、愛情をもって育ててくれたと思います。兄は長男として厳しくしつけられたので、その抑圧が末っ子の私よりやや強いようです。

良いか悪いかは人それぞれの受け取り方だと思いますが、お互いに自立・独立した人たちの集まりなのが我が家の在り方なのだと思います。

それぞれが居心地がいい方向に進んだ結果が、今のスタイルなのだと思います。全く問題ありません。

母親が脳卒中になっていたらしい

「あの人、何回か脳卒中起こしたでしょ」と兄に言われました。初耳でした。

母は母で、本人が不要と感じた本人事は、娘に伝えないということを理解しました。

盆と正月に帰省する文化は我が家にはない

私たち兄弟が小さいころは、それなりに盆正月の親類間の交流がありましたが、子供がある程度大きくなるとそれもなくなりました。

両親はそれぞれ「夜勤」や「休日出勤」のある仕事でしたので、子供に手がかからなくなると、盆正月は職場の都合を優先させていたようです。

また、親類が集まっても、大人同士が喧嘩する事態を何度か目撃しています。親の世代もあまり仲良く交流するタイプではなかったのでしょう。

我が家の盆正月軽視スタイルは、つきつめるとここら辺りが原因のようです。

両親は子供に期待せず、60歳にして墓と戒名を購入

両親はそれぞれ、「死」に対して日常茶飯事の仕事をしていたので、自分たちの「死」に対しても事務的に準備を進めています。

あるとき、お墓を戒名を嬉しそうに見せびらかされました。

自分で自分の死の準備ができるとは、最高に「自立」した姿の締めくくりです。素晴らしい姿勢だと思うので、私自身もこれは参考にさせてもらおうと思います。

余談ですが、私が死ぬ時代には、生体センサーなどで死んだ瞬間にその情報が伝わり、自動的に死亡確認、葬儀(不要ですが)、埋葬というプロセスが確立されているといいなと期待しています。

「家族の絆」とやらは本当にあるのか?

さて、ここまで紹介した内容が不快に感じられる方も多いのではないでしょうか?我が家の在り方が一般的でないのは周囲の会話からよく感じています。

・家族の絆は何よりも大事にするべきだ

・親孝行をしておけばよかった

・帰省はするもの

・家族なんだから

やはり、違和感を感じます。

家族だから特別、という感情はあまりなく、私にとっては友人も同僚も息子も等しく大事です。というか、「長く時間を共有した人」が必然的に優位となります。

育ててもらった恩に感謝する気持ちを否定するつもりはありませんが、事実としては「親が子供を勝手に産んだ」のです。

子供を育てる義務は親にはありますし、年老いた親の世話をする義務もありますが、「孝行したい気持ち」を強制するのはやはり違うのではないでしょうか。

・目上の人は尊敬すべきだ

似たような内容ですが、これも古来から受け継がれてきた儒教的思考です。違和感を感じます。

早く生まれただけで、なぜ等しく尊敬しなければいけないのでしょう。尊敬できない目上の人は沢山います。そもそも、尊敬したい人を強制するのはおかしな話です。

「家族の絆という美談」があまりに横行しすぎて、生きづらくなってないかと思ったまでです。「家族だから」「親友だから」という言葉に足かせがついているように感じるのは私だけでしょうか。

豊かな人生を歩むには、自分自身の考える豊かさを追求することが肝要です。個々が豊かに生きていれば、総体的に幸せになると思うのです。

補足となりますが、私の家族が必要なときには、友人と等しくヘルプにかけつけます。絆などと言うつもりは毛頭なく、それが当たり前だからです。友人たちと等しく、私の家族も個々に豊かな人生を送ってくれることを願っているからです。

妙に美談にせずとも、家族との関係性なんて個人的にはこの程度の感覚でいいのではないかと思っています。

 

以上、今日もここまで読んでいただきありがとうございます★

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