haruさんの本を読んで思う「多重人格性って誰でもあるのでは?」

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「会える多重人格者」haruさんについて

こんにちは、本が大好き柴子です。今日は図書館の新刊コーナーでふと目に留まった本が大当たりだったのでご紹介します。

「ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。」 haru著

台風10号が吹きすさぶ中読みだしました。すると、まあ止まらない。

多重人格者の本人「haruさん」が書いた、いや正確には、haruさんの脳内にいる別の人格「複数人」が順番に執筆しているという、専門書としても意味のある(と、後書きに専門家が書いている)トンデモナイ一冊なのです。

多重人格者といえばドラマや小説で脚光を浴びがちですが、その信ぴょう性は不確かなUMA的存在ではないでしょうか。

私はこの本を読むまでharuさんの存在を知しませんでしたが、「会える多重人格の人」として活動し、SNS発信しテレビにも出ているという、知る人ぞ知る有名人です。

簡単に略歴を述べますと、高専(国立工業高等専門学校)を卒業し、保育士の資格を取り、アプリを開発し、社会福祉士の勉強をしているという、なんとも「社会性のある、身近にいる多重人格者」なのです。

多重人格者のイメージ

  1. 「ジキル博士とハイド氏」に代表されるように、その豹変が恐ろしい(不可解)
  2. 幼児期の虐待が原因とされることが多い
  3. 犯罪者が罪を免れるための嘘という見方

多重人格者のイメージについてネットで拾えるのはこの辺りでしょうか。ちなみに、「haruさん」はこのいずれも当てはまりません。

「2.幼児期の虐待が原因とされることが多い」についても言及は無く、本書では「”圧”の強い家庭で育った」という紹介になっています。

「3.犯罪者が罪を免れるための嘘という見方」のスタンスの方や全面的に懐疑論者の方には、「解離性同一性障害」という診断名があるのも事実ということをご理解の上、ひとまず読み進めていただきたいところです。

個人的なスタンスとしては、「haruさんが何を考え、感じ、どのように生活しているのかひたすら興味がある」ということで本書を手に取った次第です。

haruさんの非日常な日常

結論からいえば、この本を執筆している現在、harauさんは「安定」しているとのこと。

haruさんは1996年生まれだが、幼少より別人格の声は聞こえていたとのこと。普通の思春期でも自己確立をするのは大変なのに(だと勝手に思っていますが)、別人格を認めていく思春期の葛藤は並大抵のしんどさではなかったようです。

しかし現在のharuさんたちの脳内の場はうまく帰結できるようになっています。個性ある人格が脳内でぶつかり、協調し、着地させる様子は、「賑やか」という表現がふさわしいのです。

理系が得意な別人格が自分の知らない間にテストでいい点を取ってくれるなんて、漫画の世界の話のようなエピソードもありました。別の人格がアプリをサクッと開発しちゃったり、なかなかハイスペックな別人格がharuさんを支えているのです。単純に羨ましく感じませんか?

感心したのが、身体を管理するためにフローチャートまで確立されている点。複数の人格をまとめるために、リーダーがいて、一定のルールが存在するのです。まさに、小さな社会といえます。

なぜこんなまとまりある状況になったかというと、別人格たちの「haruさんを助けるために存在している」という自認が、共通認識だからです。よく小説などで設定される「主人格を傷つけるダークな存在」は登場しません。

複数人格の個性的な発言や行動は、本書の読み応えあるポイントのひとつです。ぜひ手に取ってお読みいただきたい。

気になった一節

haruさんは常に自殺願望があるといいます。普段から「死にたい」と思っていると。

そして、haruさんは今記憶をなくし続けているらしい。記憶がない時間は、別人格が活動している時間なのです。「ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。」というタイトルはまさに彼らの現実的な悩みです。みんなそれぞれやりたいことがあるのです。興味深いですね。

ちなみに、haruさん以外の別人格は記憶が共有できるが、主人格のharuさんは記憶が共有できないらしいです。記憶がないのに、結果だけが残っている恐怖に、普通なら耐えられないと想像します。でも、haruさんは「ま、いいか」と刹那的に考えるようになったとか。

  • 「どうせ死ぬんだし」
  • とりあえずこれでやってみて、なんなら死ねばいい。

この考え方をharuさん自身は「ポジティブな身投げ」と表現しています。これをどう捉えますか?私は全面的に共感しました。

「いつ死んでもいい」というと過剰反応される空気

実は、私も「死にたい」とよく思います。(口にするとウザイので、心に留めておくことにしています)

自己分析するに、元々、自己肯定感が低いからでしょう。仕事で失敗したりすると、生きている価値無いなーと、一丁前にヘコんだりします。

「いつ死んでもいいんだよね」とよく言います。すると、大抵びっくりされ、次のような感情的な言葉が返ってきます。

  • 「またまたぁ~」 ←そんなキャラじゃないでしょ、のニュアンス。
  • 「子供がかわいそうじゃん?!」
  • 「まだ若いのに何言ってんの?!」

個人的には日常会話的な発言なのですが、どうやら一般的には「死」や「死にたい」は禁句のようで周りがざわつくので反省します。

「またまたぁ~」と言われますが、みんな100%死にますよね。自然現象なのに、なぜ過剰反応されるのか不思議で仕方ありません。

「子供がかわいそうじゃん?!」に対しては、子供がかわいそうでも死ぬときは死ぬので別次元の問題かと思います。死ぬからこそ自分の死後の子供のをことを考えるのではないでしょうか。

「まだ若いのに何言ってんの?!」については、若い人が死を考えるのが不自然なのだろうか?思考停止では?と考えます。性格が悪いのでしょうか。

おそらく、「死」や「死にたい」という言葉からは、「悩み」「ネガティブ」「自殺願望」「不幸」「不吉」に結びつくからなのでしょう。

確かに「不幸自慢」を無意味にしょっている人は近づきたくありません。それはわかります。

「死」というゴールがあるからこそ「生」が見えてくるのではないでしょうか。明日死んでもいいように、今日できることをやろうと思って奮闘するための発言だったりですが、一般的な「死=不吉」というイメージが日常会話では邪魔をするようです。

「死ぬ気で頑張る」ではなく「いずれ死ぬならできることやっとくか」

haruさんが言う「いつ死ぬかわからないから、やりたいことをやろう」は「前向きな身投げ」という言語矛盾がぴったりですね。

世の中、キラキラした人や、ポジティブ一直線が脚光を浴びやすいですが、「生きづらさ」を感じたりする人や「自己肯定感の低い人」が一定数いることも覚えていてほしいのです。私を含めそんなネガティブさんたちは、キラキラ人種を異次元種と捉え、決して参考にもモデルにもしません。いや、畏れ多くてできません。遺伝子が、根本のつくりが、まったく違うと思っているからです。

無理にポジティブ寄りに思考を持っていくと、後からの反動がキツイですし。折り返す自己否定がハンパないです。

でも、「どうせ死ぬなら」とか、「できたらラッキー」とか、「無理なら死ぬだけ」とか、そんな後ろ向きな盾ならすっと受け入れられる気がします。

そう、できなくてもいい。決めたことが予定通りに進められないダメ人間でもいい。

生きてるだけでハナマル。

haruさんの別人格の一人である圭一さんが、haruさんに繰り返し言い続けてきた言葉です。別人格全員、haruさんに生きていてもらいたいと思っています。呼吸しててくれたら、もうそれでいいから、と。

多重人格性って誰でもあるのでは?

実はこの日にもう1冊、「すべてがFになる」という小説を読みました。台風での停電した時間の有意義な過ごし方ですね。

その本でも多重人格者が登場しました。妙にシンクロしてるなと思いましたが、読書あるあるですね。

結果、多重人格性って、誰にでも存在するのでは?と思ってしまいました。例えば、haruさんの別人格が仕事に行かず逃げたりするのは、haruさん自身が仕事に行きたくないから、という原因に行き着くらしい。

皆さんにも経験がないでしょうか?

  • 大事なプレゼンの前に朝お腹が痛くなること。起きれないこと。
  • 勉強しなければいけないのに、漫画に没頭してしまうこと。
  • 苦手な人の前だと本来の自分を出せず、上手く喋れないこと

みんな、誰しも自分会議を行っていると思うんですね。これは言い変えるともう一人の自分が口を出している状態です。よく言う、悪魔の声、天使の声、というのもそのひとつかと。

それを多重人格と同レベルで考えるのは無謀なのは承知の上ですが、イメージとしては遠くないのではないでしょうか。

視点を変えれば、「あなたという人格」は「周囲に溶け込んで確立されていること」がわかります。「自己は他己があって初めて成立する」と言い換えられます。

  • クライアントと接する自分
  • 上司と接する自分
  • 友人と話す自分
  • 恋人と過ごす自分
  • 家族と接する自分

全部違う自分ではないでしょうか?

いや、俺は表裏ないからね、という方。上記の場面とキャラを入れ替えると、とんでもないことになりませんか^^

haruさんの場合、それが人格として固体化してジョイントした状態です。一般的には、液体のようにうまくmixされている状態。

日本では集団に「混ぜて」もらう。海外では「joint」させてもらうと言うようです。そんな風に「すべてがFになる」で表現されており、なるほどなぁと感心しました。

mix でも joint でもいい。正解も不正解もない。自分なりの関わり方と進み方で。

ただ生きて呼吸しているだけでいい。生きているだけでハナマル。という結論です^^

 

以上、たまたま選んだ本が面白かったので紹介しました。出会いに感謝です。今日もここまで読んでいただきありがとうございます★

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